久しぶりの更新。
今年も残すところあと10日となった。
久しぶりの更新。水泳は相変わらず続けている。

流石に年末だけあって寒さが厳しい。
水温が低いのが人参町のプールのいいところなのだけれど、クレームが入ったのかな、最近30℃を越えている日がある。
泳ぎ始めは暖かくていいのだけれど、すぐに体の側が温まって泳いでいるとのぼせてくる。

最近気が付いたのだが、泳いでいて限られた時間で空気を吸う方法を体が覚えたのか、吸い込む時に気道が開いている気がする。気がするだけなんだけどね。随意筋ではなさそうだし。

水温30℃、気温はもう少し上、湿度も充分な平和なプールでこんな息の吸い方をしていると、帰り道の自転車で不意に大きく息を吸った途端に気管支が悲鳴を上げる感じがする。

気管支の弱さを扁桃腺がカバーしていたんだなと思い出し、そういえば今年はまだ風邪を引いていない。
塩素で殺菌?まさか、とは思うけど。
単純に体を動かし続ける事が日々のメンテナンスに通じているんだろう。

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あまり触れずに来たが、この年末年始を境にしてかなり身の回りの環境が変わる。
具体的には事務所をたたんで、組織に属する事になる。
ポジショントークをするつもりは無いが、云わない、という方向に立場が向かわせそうだ。
他のブログのアカウントを消して再登録するか否か。多分しないかな。
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# by supa_ex | 2009-12-20 20:51 | 水泳
久々のラップスイム
きょうは泳ぎたかった。スピードではなく距離を。

完泳コースが空いている。アップにプルブイ挟んで数本。よし泳ぐぞ。
コースロープをおはじきのようにしてラップ数を数える作戦は、きょうくらい空いていると上手くいく。
3ストロークのクロールに転向してから初めてのラップスイムだ。

途中でだんだん混んできた。前の人が休んでいるコースエンドがつかえて、監視員から休むなコールが入ってしらける。
一度水から上がってタイミングを図って再度泳ぎだす。

結果は47ラップ=1,175m

久しぶりの割には泳げたかな。
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# by supa_ex | 2009-12-02 21:15 | 水泳
体幹
体幹とかインナーマッスルが注目され始めたのっていつぐらいからだろう。少なくとも学生の事はなかったな。腰が入っていないとか軸がぶれているという表現はあった。内容は同じで外から見るか内から見るかの違いかもしれない。

3ストロークのクロールも大分板についてきた。と思ったところでフォームのチェックが入る。毎度の事ながら痛いところを突いてくる。

3ストローク1ブレスということは、交互に息を吸う間に単純に水を掻くだけのストロークがあるはずである。当然呼吸をしない方が進むと思うのだが実際は逆だ。ブレスして手を戻す方が推進感がある。

これの原因が無駄なローリングである。ブレスしない時でも体と直角に頭がついていってしまっている。基本的に顔は進行方向の水底で留めた方がロスが少ない。

話は単純だ、と思ってやってみると案外と難しい。体を動かすためには外側の大きな筋肉、水中で浮かびながら姿勢を維持するには体幹を使うということになるのだろう。1時間泳ぎ終わる頃には腹筋の左右が悲鳴を上げていた。

同時にプルのテーマとして、リカバリの手が入るときに肩甲骨から前へ放り出す意識。同時に反対側の背筋を使う意識。

全部は無理だけど、腹筋背筋と両側が痛いのは体幹を駆使している証拠なのだと思いたい。
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# by supa_ex | 2009-11-27 21:02 | 水泳
ラップスイム
水泳が面白くも難しいのは息を吸う瞬間が限られているからだと思う。
例えば酸素ボンベとかシュノーケルとか、水中で息を吸う手段が一般的であればものすごく単純になる。
一連の動きの中で口が水面より上になる瞬間を作り出して、なおかつ全体のバランスを取るというのが難しいのね。
これはタイミングの話だけではなくて、運動量に対する酸素の収支みたいなものが長距離を泳ぐときには必要になってくる。
25mを泳ぐだけなら息継ぎ無しでも行けるしね。でも続かない。

3ストロークのキャッチアップクロールにしてから、この酸素の収支バランスが取れずに苦労していた。プルブイを足に挟んでひたすら体幹を意識した練習を繰り返して、やっとの事でいろんなものがひとつにまとまり始めた。2ストロークで慣れていただけにこれを壊すのに時間がかかったともいえる。ともはれ、今日は久しぶりに水の中で「判った!」を経験した。体に覚えこませるようにクロールを繰り返す。

次に泳いだときに体が覚えているかは正直判らない。それでも今日は出来たのだ。それを忘れない事が大事なのだ。
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# by supa_ex | 2009-11-25 21:13 | 水泳
十夜
十夜と云われると、漱石の夢十夜が最初に浮かぶ人が多いのではないだろうか。少なくとも私は漱石が最初に出てきた。ところが港町では勝手が違う。

浄土宗の仏事の一つだ。

阿弥陀様が悟りを開いた日であると寺の坊主が法話の中で云っていた。
地方の寺の坊主が10人ほど集まって、阿弥陀如来像の廻りを進みながら経を唱える。
成る程、面白いものだと見ていたのは最初の2時間ほどだ。

先の見えない時間は人を苛立たせる。
仏事は進み「ふじもん」と聞こえた平易な経に移る。
調べてみると「諷誦文」の事らしい。
その年の仏に対して寺に諷誦をしにきた人の数だけ唱えられる。
自分の身内の名が出たときに焼香をする。
これが長い。順列組み合わせのように故人の俗名と季節の文句がひたすら唱えられる。

6時から始まった十夜法要が終わったのが10時だ。
しかもそれで終わりではない。

翌日に諷誦を頂いた家に対してお返しを持って廻るのだそうだ。
まあ、伝わる仏事であるからには仕方が無い。その通りに動くのだけれども、問題なのは誰一人として意味を知らないことだ。「そういうものだ」という最低限のアウトラインが判明したころには日付が変わっていた。
翌日には役所と家庭裁判所を廻らないといけない。
仕方がなく、湊町に住む親戚にお返しはお願いすることにした。
お返しというのが具体的には1200円~200円くらい。
洗剤等の日用品が一般的らしい。

そういえば湊町の家には紙の付いた日用品が沢山あった。
病床で一人暮らしでは使いきれるものではなかったのだろう。
湊町での葬式で、お礼にやはり日常品を用意したのを思い出した。
限りなく限界集落に近い湊町だ。来る人々は例外なく高齢者で、私など小僧といったところ。
足が悪い爺さん婆さんが杖を付きながら洗剤だの醤油だの味醂だのの大荷物を風呂敷で持って帰る。
例えば、お好きなものを選べる商品券とかは「無いハナシ」らしい。
不合理だなと思いつつも、使う人のいなくなった洗剤などを車で来たのだからと頂いて帰る。
正直、仏事は面倒なことばかりで辟易する。
その一方で、生活の中でその時供された洗剤だの日用品を使う時期が来る。
嗚呼、成る程。故人の死という現実を生活の中で折り合いをつける作業なのだなと思う。
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帰り道に役所を廻って食事をする場所が見つからないままにアクアラインに乗る。
湊町に行くたびに折角だからと地の魚を食べてきたのだけれど今回は時間的にかなわなかった。
鮨が食べたいという母の要望で海ほたるの鮨屋に入った。
残念ながら回転鮨しかない。とはいえ母は初めて入る回転鮨を喜んでいた。
海の上にこんなものが出来るなんてすごいねぇと言いながら。
地の魚かと云われると疑問なのだけれど美味しく感じたのは確かだ。

こうして、現実との間の折り合いをつけていくんだな、と残念なことに雨模様の海を見ながら思った。
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# by supa_ex | 2009-11-19 21:38